2024-11-23
いなむら県知事選挙の敗北に思う
斎藤前知事が受けていた批判は主に「おねだり」と「パワハラ」そして「権力の乱用」でした。そのうち「おねだり」と「パワハラ」は、もちろんいけないことですが、特に今回のように強力な反論キャンペーンがされる場合、「ほんとのところはどうなの?」状態に持ち込まれやすいのです。
それに比して、「権力の乱用」は、職員からの「内部告発」に対して、知事の権力を用いて告発者探しをし、資料を押収し、人事処分をしたというものですが、知事本人も、この権力の行使は正当だと言っており、事実関係に争う余地がありません。
そしてこれは、権力者・政治家としての倫理に反するばかりか明確に「公益通報保護法違反」だったのです。この点について、県議会の百条委員会においては、ほぼ「法違反」との認識が固まりつつありました。
しかし、県議会は百条委員会の明確な判定を待つことなく、追及半ばで、知事不信任決議に踏み切りました。
1 今回の知事選の本質的な争点は、この「違法状態」を許すのかどうかにあったのです。
権力者を規制する法律に対する違法行為を「正当だ」と言っている人を再び知事にしてよいのか?それを争点とするべきだったと私は考えます。
そのためには百条委員会で「違法」を公式に認定するべきでした。それを待たずに、不信任決議から知事選挙へと走ったことによって、今回の選挙は、民主主義の根本を争う性格を薄めてしまいました。
本質的争点を掲げないことによって、いなむら候補は「挑戦者」であることが難しくなってしまいました。この本質的争点以外に県政の政策的にはこれという争点は設定できませんでした。最初の確認団体チラシには「3期12年の尼崎市政における実績」(立派な実績で、まっとうに考えれば県政を担当するにふさわしい資質の証明なのですが)しか書けませんでした。これが逆手に取られ「改革派」VS「実績=守旧派」の構図に利用されます。
2 相手方はそこを突いてきました。
「おねだり」や「パワハラ」について、一つには「程度問題」という印象を与え、その上に「反省」をアピールすることで、二つ目には県議会や県庁、いなむら陣営を「既得権益集団」とし、斉藤前知事をそれに対する「改革派」、という図式を作り上げることで、「かわいそうな斎藤VSそれをいじめる県議会、マスコミ」、そして「孤独な改革派VS既得権の守旧派」の対立を描き出したのです。一人で駅立ちすることから始めた斎藤前知事の選挙運動はその図式にピタリとはまりました。
3 次に起きたことは、
立花に代表される勢力の「斎藤応援のための立候補」などの「援軍」の登場です。この勢力のやったことは、立候補者の選挙法上の権利の想定外の悪用、ネット上での徹底したプロパガンダと、街頭への動員、そしてその相乗作用、そして後半ではプロパガンダによる徹底的な個人攻撃でした。
これらのプロパガンダに、ネットでしか情報を得ようとしない若い世代が引き込まれました。彼らが強く抱いている時代、社会の閉塞感が、これらのアピールに共鳴したようです。
50代を境に若い世代ほど斎藤支持の率が高い、という結果に、若い世代に広がっている社会への反発、憎悪を見て取るべきだと思います。
加えて、そのプロパガンダの言辞の暴力性と街頭でのむき出しの暴力(反対者に対する妨害排除の説得などなしにいきなり「殺したろか」から始まる恫喝)が見ている人に恐怖心を与えたことも見逃してはいけません。尼崎でも、ポスターの顔の口のところにタバコの火を押し付けるなどの嫌がらせもありました。
私の周りでも、本来いなむら支持であったろう女性の中に「怖い、かかわりたくない」という声が広がりました。
4 プロパガンダについて。
「ネット」に負けた。という声が回りにあがっています。私は、そうではなく、「ネット」という手段に負けたのではなく、悪質な「プロバガンダ」に負けたのだと考えます。
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