尼崎朝鮮学校に関する市の政策―その歴史的経緯
2026-01-12


尼崎朝鮮学校に関する市の政策―その歴史的経緯
 
  2026年1月
尼崎朝鮮学校をささえる会  代表世話人    酒井 一

朝鮮学校を巡る議論が幾度目かの表面化をしています。
今回の議論は、朝鮮学校への行政の支援に反対する人々から仕掛けられているのですが、それに対して、支援を正当なものと説明するために「歴史的経緯」という言葉がよく使われています。
しかし、その「歴史的経緯」の「中身」は、それこそ歴史の中で風化しているきらいがありました。その「中身」特に行政施策としての朝鮮学校支援の形成過程を、できるだけ行政の公文書などに依拠して明らかにする必要を痛感したのでこの資料を作成しました。

歴史的経緯の説明を試みた事案は、次の3点です。
1 1945年〜46年 朝鮮学校の発足から禁止。市立学校の分校と位置付けたこと。
2 1965年〜66年 市立学校の分校から再び朝鮮学校へ
3 1981年     尼崎市が朝鮮学校就学補助金を開始したこと
関係諸兄姉の参考に供します。朝鮮学校を支え、守るためにお役に立てば幸いです。


T 朝鮮民族学校への弾圧 尼崎市立小の分校になる

1945年8月 敗戦 朝鮮植民地支配の終了
〇1946年春 朝鮮人学校設立 主に日本国内に定住していた朝鮮人による自主的な民族教育のための学校 「初等学校」と呼称    
 ・市内の在日朝鮮人 約45000人 武庫川河川改修 阪神国道工事に働く(強制連行とは別)
・朝鮮学校の当時の実態(1949年9月)
守部・常松・大島(今北)・浜田(崇徳院)出屋敷・大庄(西)・長洲・立花(三反田)園田西部(塚口)園田東部(小中島) 23教室 871人 教員23人

〇GHQの占領政策の転換 民主化 → 共産主義への防波堤 「逆コース」
1948年1月24日 通達「朝鮮学校の取り扱いについて」
  市立学校の認可を受けよ(朝鮮語教育を否定) 日本の学校へ通え
1948年4月 阪神教育闘争 (「阪神教育事件」とも)
1949年9月 「朝鮮人連盟」に解散命令(団体等規制令)
1949年10月 兵庫県 朝鮮学校に改組(閉鎖)命令
〇尼崎市が朝鮮学校を市立学校の分校に位置付ける
1949年11月 尼崎市六島誠之助市長 朝鮮人児童を武庫小に仮収容
1949年12月 尼崎市 朝鮮學校を市立校の分校とする(5校)(全国初)
       設置理由書(尼崎市戦後教育史P290に引用あり)を県に提出 
朝鮮人教員採用 朝鮮語、朝鮮歴史、地理を正課に準じて採用 
        伊丹・明石・高砂(県内) 愛知・神奈川がつづく
        朝鮮人側からは尼崎市長宛て「誓約書」(尼崎市戦後教育史P292に引用あり)
         兵庫県と朝鮮人側の間に「覚え書」(同P293に引用あり)

U 分校から再び朝鮮学校へ
 
〇1965(S40)年 朝鮮人側から、分校を朝鮮学校へ移管することを要求         参考(1)
        市はこれを受けて、「朝鮮学園」に移管の方向をとる           参考(2)
  参考(1) 1965年は日韓条約締結の年。朝鮮の南北対立の中で日本が韓国を承認。「共和国」側の在日朝鮮人は分校での民族教育に対する日本の態度悪化を心配したのではないか。
  参考(2) いかに上げる議会での当局答弁から、分校では日本の義務教育課程と民族教育の間で、また学校側と朝鮮人の間で対立紛争があったことが推察できる。

〇分校廃止条例(朝鮮学校の自主校化)を巡る議会の議論               参考(3)
1965年
11/18  @文教委員会  分校廃止問題事前説明 
     朝鮮人側の希望 ・施設の無償譲渡か貸与 ・運営費援助 ・県の認可 を希望
      分校は群馬、神奈川、愛知、兵庫県にあり → 移管の方向
      「移管は良いが経済的援助はダメ」との意見あり 分校廃止条例提案は了解。 
  12/11  A幹事長会   分校廃止について 

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