兵庫県知事選挙 雑感
2024-11-13


今日初めて「X」(旧ツィッター)を見たのですが、すごいことになっています。現時点ではいなむら候補に対する非難に満ち満ちているのですが、その内容が、12年間の稲村尼崎市政のマイナス面を誇張してあげつらうもので、数字や資料を挙げたもっともらしい提示の仕方で、呆れたり感心したりでした。
 あのね、欠点や足りない面のない自治体政治があればお目にかかりたいものです。ある首長の自治体政治の評価は、その自治体がおかれた条件の下でプラスもマイナスを含めて、どれだけ可能で最適の方策をとったかによるのですよ。施政の欠点を挙げることは簡単です。欠点のない施政は存在しないのですから。それだけで政治を評価していては何も生みだしません。これを「言葉、評価の暴力」と私は言いたい。
阪神の桐敷は3勝しかしていないからだめな投手なのですか。防御率1点台の投手も何度か撃ち込まれた事があればだめ投手なのでしょうか?
 事実の一面だけを取り上げて全体の評価とする。このような手法はデマゴーグがもっとも得意とするところです。
 「それは事実であっても真実ではない」と有名なジャーナリストが言ったたことがあるそうですが、まさにそれです。
 他方で、街頭宣伝の場ではむき出しの暴力が出現しました。街頭宣伝の場で、批判のヤジどころではなく「死ね。」「殺したろか。」などの無内容だが恐怖をあおる言辞が飛ぶようになったのです。
 ナチの手法を読んできた私には「あれと同じだ」という恐怖心が生まれました。ナチス突撃隊の街頭での暴力と、ゲッペルスによるデマ宣伝(嘘も百回言えば大衆は信じる)。これがナチスの宣伝力の両輪であったと思っています。当時のドイツでは政党はそれぞれ暴力装置をもっていました。街頭でそれらが衝突する姿を見て、ドイツの大衆は政治に背を向けなかったでしょうか。それが一番恐ろしいことです。
 いなむら選挙はその世界にはまり込むことなく、民主主義の正道を歩み続けましょう。
 今回の知事選では、前知事による「権力の私的乱用」を許すか許さないかが県民に問われているのです。言論、実際の暴力か、論争、対話の民主主義かが問われているのです。
 選べばその責任は私たちにあります。もう「だまされた」は通用しません。

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